「墓の魚」の音楽「シャンソン・フュネライユ」によく登場する重要キ
ーワードをこのページでは説明いたします。

ラテンのこれだけは知っておくと「墓の魚」の音楽がより楽しめますよ!!

 





メメントモリとは、ラテン語で「自分がいつか必ず死ぬ事を忘れるな」
という意味の警句です。

決して暗い意味ではなく「だからこそ、今を楽しめ」という意味を持っ
ています。

この思想はラテン諸国、イタリア、フランス、ドイツ、南米と、各国に
普及している思想ですが、
「死を考える事で、生きる喜びを感じる」「前向きに後悔ないように生
きる」
というこういった思想は、メキシコの死者の日を例にとってもわ
かるように、ラテン独特の精神性として、彼らの根底に根付いているも
のなのです。

こういった思想を表現した芸術をメメントモリ芸術と呼びます。











ヴァニタスとは、メメントモリ芸術の一形式とも考える事ができる芸術
で、16世紀のヨーロッパで流行した主に静物画のジャンルの事を指す言
葉です。

言葉の意味はラテン語で虚栄



人間の豊かさ繁栄を表現する食べ物や、財宝を描いた絵の中に、髑髏
や、砂時計を描く事により、それらの豊かさ、繁栄が永遠でない、やが
て死が現世での価値観、地位なども全て無に帰してしまうのだから、所
詮、この世は虚しいのだ。という皮肉を込めました。

 

 







ピカレスク文学とは、スペイン語でいうピカロ(悪党)の文学、つまり
党文学という意味です。

悪党と言っても、それこそ詐欺師のような者から、乞食不信心者
くれ者など、定義的には、社会的身分の低い者の事を指していて、そう
いった者が主人公になり、彼らが物語の中で、社会の矛盾や、教会の悪
事を、皮肉めいた愚痴で語っていく、批判していく・・という形式の文
学作品が元来のピカレスク文学の特徴となります。

覚えておいて欲しいのは、ピカレスク文学は現在では世界中にあります
が、元来、スペインのお家芸だという事です。

ある文学研究の世界では、ピカレスク文学とは、十六世紀スペインで発
生した文学の一形式を言います。

この手のユーモアを交えた身分の低い者(逆に言えば、貧民、庶民の味
方、代弁者)からの辛辣な社会風刺は、スペインが最も得意とする芸術
の一つなのです。

ちなみに、スペイン文化であるアルゼンチンタンゴも、フラメンコも、
近いラテン文化であるポルトガルのファドも、それぞれ、このピカレス
ク哲学が根底に生きています。

タンゴでは、コンパドリートと呼ばれるアルゼンチンのヤクザ者が、歌
の中で何度も讃えられています。

フラメンコは元々、フランドル地方の荒くれ者達が関わっているという
説があります。

ファドで、歌い手の賛美の掛け声で使われているファディスタという言
葉は、元々、町にいたならず者の自警団達の事を指していたといいます。

こうした他国や、政府に虐げられてきた身分の低い者達による誇り(イ
タリアでいうマフィオーソに相当するでしょう)を知る事が、ラテン文
化を根底から知る第一歩になるのだと思います。











メルドとは糞、糞便を意味するフランス語です。

ただのフランス語としても使用できるのですが、芸術用語として、とて
も重要な意味を持っています。

日本でも失敗した時に「クソ!!」のような表現を使いますが、フランス
でも「メルド」は、罵倒言葉として存在しています。

しかし、同時にこのメルドという言葉は、洒落た皮肉、ユーモアを愛す
るフランス芸術の世界では、まるで芸術の代名詞であるかのように愛さ
れている重要な言葉なのです。

それは罵倒でありながらも、そこに愛を表現する「ああ、糞ったれで素
晴らしき人生」という表現を代表に、皮肉を語りながら、「でもそれこ
そが人生だ」と言い表すようなエスプリな哲学に使われます。

そもそも糞尿というものは、最も汚らわしいものとされながらも、誰も
が自然に排泄しなくてはならないものであり、避けては通れないもので
す。
そこに究極の皮肉があるわけです。

この感覚は、フランス独特のエスプリ哲学を追求する事で、より一層、
理解する事ができるようになります。








エスプリとは、元来はという意味ですが、実際にこの言葉が使用され
る時は、フランス的魂、つまりフランス的精神という意味で使われる事
が多いです。

エスプリとは何か?これを一言で表現する事はとても難しいのですが、
簡単に言うのなら、フランスに住んでいる、触れているとわかるユーモ
ア、または芸術表現・・・でしょうか。

日本にはわびさびなどという言葉がありますが、それと同じようなも
ので、これはフランス的な感覚なのです。

それはユーモラスであると同時に、男女の愛を非常に讃え、時として
社会的な程、いたずら好きです。そしてフランス人の性格を見るとわか
るように、とても誇り高く、個人主義なものです。

こういった感覚はフランス映画に特に現れているので、フランス映画を
多く観る事で理解していく事ができると思われます。













悲喜劇とは、悲劇性を含めながらも、劇中にユーモアが入っていたり、
悲劇な出来事に襲われた人物達の出した結論、結末が明るく愉快なもの
であったり、または悲劇的な話なのに、喜劇的(ブラックユーモア)に扱っ
たりされている劇を指す言葉です。

実際に我々の人生は、悲劇喜劇が混在しているもので、また、同じ現
象でも、受け止める人間の考え方次第で、人生とは悲劇にも喜劇にもな
ります。

そういう意味で、悲喜劇という劇は、ある意味、現実的で、ややシニカ
な作品・・・と考える事ができるかもしれません。

こうした表現はフランスの「ああ、糞ったれだけど、素晴らしき人生」
という表現などと共通する所があり、実際、フランス映画には悲喜劇
ものが多いですね。











プレシオジテとは、十六世紀フランスの上流階級で流行した一傾向で、
芸術作品においては、技巧知的である事を重視した、悪く言えば、
気取った作品の事を指しました。

よく言えば、非常に洗練された知識人達が生み出す、同じく洗練された
芸術作品
なのですが、当時、優雅である事、知的特権階級である事を重
視したプレシオジテ思想は、排他的であり、芸術至上主義であった為、
気取り屋知識をひけらかす衒学的な様、など、悪い意味で解釈される
ようになってしまいました。

確かに、わかりやすい、非洗練、大衆文化を重視する現代では、受けに
くい芸術形式ではありますが、あくまで知識技巧、あるいは格調高さ
を重視した一つの考え方であり、「墓の魚」ではこの芸術形式を尊重、
取り入れています。














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